平安時代末期から室町時代にかけて、京の都を中心に日本全国で、貴族から武士、民衆にいたるまで大流行した「田楽」という芸能がありました。田楽はその後「能楽」の大成と入れかわるように姿を消していきました。
この田楽を今日的に再生したのが「大田楽」です。狂言師の故野村耕介(1959-2004)を中心に、松岡心平、高桑いづみ、山中玲子、橋本裕之ら学術研究者の監修、一噌幸弘の作曲をはじめ、振り付けには多くの舞踊家の皆さんが参加、その協働作業により誕生しました。
1990年赤坂日枝神社で初演後、長野冬季パラリンピック閉会式での上演などで国や地方自治体の催事で催してきました。
プロ、セミプロと、アマチュアの市民参加が三位一体となって繰り広げる「大田楽」は、現在石川県加賀市や、静岡県伊東市、東京都六本木、群馬県高崎市、新潟県小千谷市などで毎年開催されているほか、学校の総合学習の中で伝統文化の体験として行われています。海外との文化交流も多く、ワシントン D.C. 、フィラデルフィア、ロサンゼルス、マドリード、グラナダ、ウィーン、ソウルなどで、地元の市民参加と一緒に上演しました。
大田楽は日々新しい音楽や躍りを加え、九世野村万蔵演出による現代(コスプレ、プロジェクションマッピング)とのコラボなど 『 文化とは形を変えて心を伝えるもの 』という信念のもとに展開しています。
どこからともなく心地よい古の響きが聞こえてきます。 響きは次第に近付き、観る者を幻想の世界へと誘います。
躍動感に満ちた喜びの躍り「番楽」。山伏神楽に想を得、アップテンポなリズムを取り入れた勇壮かつ軽快な躍りです。
兎の肢体と霊力、そして五穀豊穣を祈願する心を舞踊として形象化したもの。兎歩と呼ばれる独特な足踏みにより地霊を鎮め、場を清めます。
鬼門を鎮め、場を浄める王舞が、一官の笛の音、太鼓の重い響きと共に静かに、力強く舞われます。 眠りから覚めた二頭の獅子が、跳ね、走り、絡み合いながら舞います。勇壮なテンポの音楽に乗って、清列の気が充満してきます。
汚れなき者の象薇=稚児(ちご)が神の庭を清めます。 五色に彩られた華(紙)がまかれ、舞台に彩りが添えられます。
田楽法師一行の長である田主(たあるじ)が白装束に 翁烏帽子姿で現れ、神に向かって田楽法師の来訪を報告。裂帛の気合いと共に朗々と奏上を読み上げる姿に、辺り一面に厳粛な空気が流れます。
“今ここに舞い遊ばん、いざここに躍り狂はん“
「大田楽」のクライマックスです。
腰鼓(くれつづみ)、編木(ささら)、銅拍子(どうびょうし)など、楽器を囃しながらの力強い躍りが所狭と繰り広げられます。
さらに迫力満点のアクロバット(軽業)、コスプレイヤーによるパフォーマンス、手に汗握る中国雑技(散楽)が次々と繰り広げられ、熱狂の渦は頂点へと達します。最後は、躍り手全員と会場の来場者が一体となる「乱舞」でしめくくります。
田楽法師は再び行列を組み、音楽を囃しながら去っていきます。
農耕文化の日本にとって、稲作はその要ですが、身体的には辛い作業でした。歌や囃子を奏して農作業をはかどらせる事が始まり、それが芸能の一つとして成立していきました。やがて平安時代半ばには「田楽法師団」という職業集団が生まれ、大陸から渡来した「散楽」というアクロバティックな芸能が加わって、村から村へ渡り歩くサーカス団のような存在になっていきました。
地方の荘園で評判の田楽を都に呼んで芸を披露させたことで貴族の間でも流行し、「栄華物語」には、身分の差別なく昼夜をあげて、人々が練り歩く「田楽」の様が記されています。後白河法皇や、北條高時、足利尊氏のような権力者から民衆までを熱狂させた田楽でしたが、室町時代に能楽(猿楽)が登場すると、入れ替わるように姿を消していきました。それは、参加型から観覧型へ人々の嗜好が変化したと考えられるでしょう。
(テキスト:Copyright 特定非営利活動法人 ACT.JT)